楽しい音と共に生きる街(チェコ:プラハ)
 プラハ旧市街地の中心は旧市街広場である。この広場は、観光客が多く集まる天文時計があり、英雄ヤン・フスの銅像が、広場全体を見渡すようにきりりとして中心部に建っている。人もあまりおらず、近くの市民が時折横切る程度で、朝・夕は、閑散としているものの、日中になるとあちこちの路地(広場から見ると放射状に延びた道)から、ぞろぞろと観光のため訪れた人々が集まってくる。ほとんどの観光客は、この広場を起点にしてカレル橋を渡りプラハ城方向、火薬塔から「プラハの春」の音楽会場となるアール・ヌーヴォ建築の市民会館方向、虐待されたユダヤ人の墓地(シナゴーグ)地域方向、さらにはヴァーツラフ広場から国立博物館やドヴォルザーク記念館方向など、見物を始めるようである。

 しかし、まず最初に見るのは、旧市庁舎の側面に設けられている天文時計である。ここの時計が妙に懐かしい子供の頃聞いたことのある柱時計の、あるいは時代劇で見た悪徳家老や代官の屋敷に飾ってある西洋時計が打つ時の音に似た音が正確に広場にそれとなく響く。ミュンヘンの新市庁舎のカリヨンやロンドンのビッグベンのようなきらびやかな、また辺りを威圧するような大きな音ではない。その後、広場を取り巻くように建てられた教会の高い塔から、次々と時を告げる音が辺り一面に響き渡る。まさに鐘の音の競演である(LAeq:72dB)。しかし天文時計の古びた小さな音は、とてつもなく威厳を感じる。


 ヨーロッパの古くからの都市はどこでも、時刻を告げる鐘の音が耳に入るのは当り前であるが、この場所の音は、その小さなか細い、艶のない音があり、その音が他の多勢の鐘の音を引っ張り、余計に音空間のダイナミックレンジを大きくしている。そのため他の都市空間とは全く異なった音風景を演出している。

  旧市街広場から放射状に延びている石畳の路地は、広場から少し離れた地点で曲がったり、突き当たり、他の通り(路地)と交わったりしてパリの凱旋門から延びている放射道路とは全く異なる。

 ところが路地の辻にあたる所や、少し広くなった場所のそこここで、大道芸人やストリートミュージシャン、あるいはマリオットとは違う音の出る小さな玩具など打っている人に出会う。



 ある路地を歩いていると、どこからかきれいな小鳥の声が聞こえてきた。不思議に思ってその声の方向へ足を向けると、小さな箱をかかえて鳥を鳴かせている。良く見ると小鳥の玩具である。その玩具売りの後姿、物腰、衣服など、「魔笛」の中の鳥打ちパパゲーノと重なって見えた。最近新宿や駅構内等で売っているような電子式のものではなく、絹糸と板かあるいは厚手の紙が小鳥の中に仕掛けられており、擦りそれを共鳴させることによって、きれいな声にしているのである。相当の年季が入らなければできない技であろう。

 また別の路地につながっている小さな広場では、休日のせいでもあるが、老人に近い壮年のグループによるジャズ、若者達のグループによるロックの演奏などのパフォーマンスに出会った。土地の人々、観光客に疲労するよりも自分達で真に楽しんでいるようである。いずれのパフォーマンスもいくつかの電気音響設備であるスピーカを使用しているため、割合遠方まで大音量で広がっている。

 演奏者達を中心に人だかりのしている所からやや離れた場所の建物の前に微動だにしない一人が妙に気になったので近づいてみた。驚いたことに、何と彼は騒音計を持ちその音を測定していたのである。チェコの法律では音楽等による音は、市街地、建物近傍では日中LAeq70dB以下でなければならないが、人だかりのしている所から30メートル程度離れたこの場所では、LAeqで約67dBを示していた。なお屋外で発生される音楽等の音は、日中に限られて許可されており、他の騒音(一般的な環境騒音)は、日中50dB以下、夜間はそれよりも10dB小さい値と定められており、こと音楽に対するボヘミアンの肝要さを伺い知ることができた。



  夜ともなるとプラハ市内では、必ずどこかのホールや教会内で種々の音楽会が催されている(ただし休日等は、午後3時頃から開かれる所が多いが)。自分の好みの音楽、場所、規模など相当自由に選ぶことができ、旧市街地広場周辺でも数ヶ所はある。国立オペラ劇場のような大規模ですばらしいきらびやかな空間とは別に、ある時小さな教会で数十人程度の規模で催されているイタリア歌劇を聴きに行った。聴衆は市民に交じり我々のようなツーリストも多少は居たが、ミラノの歌劇場にも出演している人がすばらしい歌を披露していた(LAeq:84dB、最大値102 dB)。聴衆と一体となり、最後にはカンツォーネで幕となり、誠に気持ちいい余韻が残った。

 プラハの街全体が一日中それぞれの音にやわらかく包まれ、中世の風景とも全ての音がマッチしているような雰囲気でそれを市民が存分に享受しているようである。




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